攻撃を全て跳ね返してくる男を壁際にまで追い詰めた話

「この野郎! ブッ飛ばしてやる!」

僕は、そう心で叫び、目の前でニヤついて僕を見ている男を睨んだ。白いズボンに緑のベルトという、色調がたいして合っていない服装のその男は、僕の横腹に蹴りを入れてニヤついている。その男のことを、ここでは仮に緑男と呼ぼう。僕は今、緑男とタイマンの位置にある。周りには、10数名のギャラリーがいる。女性もいる。誰も止めようとしない。なぜなら、僕と緑男のタイマンだからだ。

 

僕は、生まれてから殴り合いの喧嘩というものは皆無である。喧嘩になっても殴り合いにはならない。その前に穏便に解決するというのが、僕の信条だ。もちろん、自分から殴り合いの喧嘩に持ち込むこともない。平和が一番。ところが僕は今、緑男をブッ飛ばしたいと心底思っている。怒りで激高しているのが自分でもよくわかる。握った拳は、汗でびしょびしょだ。僕は、反撃に出た。

緑男は、僕の攻撃をなんなくかわす。そして、カウンターでまた僕は痛めつけられる。僕が激高する理由の一つはこれだ。僕の攻撃が緑男に一切、通用しないのだ。緑男は場慣れしている。一方の僕は、初心者。力の差は歴然としている。しかし、僕はそれでも何とか一矢報いたいと、前に出て緑男に襲い掛かる。無駄だ。いくら、やっても無駄だ。それでも何とか、緑男に一発食らわせたい。僕は、意地になっている。でも、それが緑男にいいようにやられている原因だったのだ。

 

僕の攻撃が一向に緑男に通用しない。向って行っても返り討ちにされてしまう。このもどかしさ、力不足の不甲斐なさ、情けなさが僕の怒りの正体だった。本当は自分に怒っている。攻撃をすればするほど、返り討ちに合うので、怒りが倍増していくのだ。その状態で緑男のニヤついた顔を見ると馬鹿にされたような気がして、さらにムカッ腹が立つ。その状態を何とかしようと、意地になって攻撃を仕掛ける。しかし、怒りに満ちた状態というのは視野が狭い。周りが全然見えていないのだ。だから、あっさりと返り討ちにあい、さらに怒りが増長する。ハッキリ言って、悪循環に陥っているが本人は全く気が付かない。

バスケット漫画の名作『SLAM DUNK』。バスケット初心者の桜木花道が試合に初めて出場した時、緊張で視野が狭くなり自分の本来のパフォーマンスを発揮できずにいた。バスケットボールにだけ意識が集中し、周りのことが全く視界に入らないのである。怒りに満ちた僕が、まさにその状態だ。感情に支配され、周りを見る心の余裕がないのである。そういえば、僕が生まれて初めて開催したセミナーも同じような状態だった。

 

今から10年前、僕は生まれて初めてセミナー講師として登壇した。受講者は、友人ばかりが13名ほど。プライベートでは仲のいい友人ばかりが集まっているにもかかわらず、セミナー講師と受講者という関係になったとき、これまでにないプレッシャーと恐怖が僕を襲った。不安で不安で仕方ない。本番直前まで自己紹介の練習をした。そして、本番。挨拶をする。声が上ずり、緊張しているのが自分でわかる。「やばい! このままでは、受講者に不安を与えてしまう……」焦る。さらにプレッシャーがかかり、視界が狭まり、どんどん目の前が暗くなっていくのを感じた。

どうしよう……僕は、深呼吸をした。深く息をしながら、話すスピードを落とした。すると、気持ちが少し落ち着いてきた。狭まっていた視界も広がってきた。この調子この調子。呼吸を整えていく。視界がどんどん広がり、セミナー会場全体が落ち着いて見え、受講者一人ひとりの顔の表情をハッキリと捉えることが出来るようになってきたのだ。もう緊張感はない。非常にリラックスしている。講師としては未熟かもしれないが、その時のベストと言えるパフォーマンスを発揮できたと感じるセミナーとなった。セミナー後のアンケート結果もまずまず満足してくれたみたい。こうして、セミナー講師デビューを何とかすることが出来たのだ。

 

僕は、緑男と対峙しながら、その時のことを思い出した。「そうだ! いったん心を落ち着かせよう!」緑男の攻撃に備えながら、呼吸を整えていく。怒りに任せて、イノシシみたいに突っ込むことは止めだ。まずは、心を落ち着かせることだ。対峙している緊張感を保ちつつ、深く深呼吸をする。次第に心が落ち着きを取り戻す。と同時に、視野も広くなってきた。緑男が依然としてニヤついている。その顔を見て、僕は面白くなって笑みがこぼれる。力強く握っていた拳が卵を包むような柔らかい握り方に変わる。肩の力が抜け、リラックスしている状態だと自分でわかる。さて、目の前の緑男をどうしようか?

すると、緑男が攻撃を仕掛けてきた。右中段蹴りだ。僕は左手でそれを薙ぎ払い、右中段蹴りで返す。案の定、緑男は難なくさばく。そこで僕はすかさず、左かかと落としの連続技。緑男、軽快なステップで一歩後ろへ下がる。しかし、それを追うように僕の左跳び蹴り。蹴りは受け止められた。しかし、緑男を壁際に追い詰めた。心を落ち着かせたら、視野が広がり、本来のパフォーマンスが発揮できたのだ。さぁ、いよいよこれからだ!

 

「やめ!」
とここでストップがかかる。テコンドーのスパーリングの終了だ。僕と緑男は道場の中央に戻り、礼をして脇に下がる。緑男が話しかけてくる。「最後、無駄な攻撃が無くなりましたね」緑の帯を締めるテコンドー6級の緑男先輩は、白帯の僕に話しかけてきてくれた。やはり、感情に心を捕らわれた状態では、視野が狭くなり、攻撃も単調。無駄な動きも多くなるということが分かった。心を整えると自然体で、自分のパフォーマンスが発揮できるのは、テコンドーもプレゼンテーションも同じだと感じる。自分を最大限に発揮したいのであれば、心を整えること。改めて、その大切さを実感した。

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